2009年10月17日土曜日

何故シルバーシートを設けたか?

今日の大朝は曇り、時々晴れ間は有るが穏やかな日である。今朝はお寺のお掃除からスタートした。報報恩講・供養法要を19日に行うため門徒が集まり一斉掃除、残念な事に住職不在のお寺である。今朝も年配の方が「おい、今後どうするか考えないとこのままでは続かんぞ」と開口一番。この問題も何とかしなくては。先祖代々受け継いでいる各家々、そのお陰で今日が有る。その代、その代の心の支えが仏の教えである。お寺の重要性は計り知れないものが有るように思う。しかし、目先の損得だけで生活している現代では「不必要なもの」の筆頭がお寺である。罰当たりな事である。先日、社会教育学者のお話を聞いており、「なぜシルバーシートが設けられたか?」と質問された。そうだ。その時はじめておかしい事に気がついた。お年寄りを敬う事は当たり前、体が不自由な方をサポートするのは当たり前と思っていたが、現実は違うという事に気がついた。世の中がおかしいと思っている人は多くおられると思うが、身の回りを見ると自然に恐ろしい行動をとったり、習慣になっている事が有るはずである。人の事ではないので自分自身、自問自答しながら物事を再考しなければいけないとつくづく思う。私は日常の色々な課題解決の為、古典を学ぶ事がとても重要だと思う。やはり「人」が中心だと言う事であろう。まったく、時代は関係ない事がよく分かる。論語の中にも「礼譲」とか譲るという言葉がよく使われている。「譲を以て国を納めればそう難しいことではない。」とか譲る事が人間社会でいかに大切であるかと言う事を何百年前にも最重要としている。また、私の好きな言葉で「礼楽」(れいがく)がある。「楽」(がく)調和と言う意味であるが非常に大切だけれど、それだけではいけない。そこに「礼」(れい)けじめがなければいけないという事。評論ではなく、実践したい。望むことより自らを慎むことから始めなくてはいけないと思う。